このページでは、江古田富士/富士塚に登った際の写真を掲出します。
浅間神社境内には、富士塚(通称:江古田富士)があります。国の重要有形民俗文化財(昭和54年/1979年指定)・練馬区登録重要有形民俗文化財になっています。
毎年正月の三が日は、一般の方の登拝が許されます。
以下30葉ほどの写真でご案内をいたしますが、わたし/catの準備不足から、すべての石像・石碑を撮影することができませんでした。ご了承ください。
とはいえ、それなりに雰囲気は味わっていただけるものと思います。
なお、写真をご覧いただく前に、富士講・江古田富士について、簡単に説明をいたします。
わが国では、古代から山神崇拝/山岳信仰の風習がありました。それは、仏教と結びつきながら、富士信仰を生み出していきます。
江戸時代中期から、富士山や神奈川の大山に参拝することが一種のブームになりました。もっとも、それなりに費用がかかるため、「講」(こう)というグループを組織し、仲間どうしで資金を出しあいました。
富士山に行く場合は「富士講」と呼びます。落語の好きな方は「大山詣り」なんて話を思い出していただければ、イメージがわくと思います。
とはいうものの、実際に参拝できるのは講の代表者たちだけでした。また、体力的な面からも、高齢者や女性が参拝することは困難でした。
そこで、参拝できない人たちのために、各所に富士山をかたどった塚/小山が作られました。要するに、そこにお参りすることで、ホントの富士山に参拝したのと同じ御利益が得られるというシステムになっていたわけです。
人工的な塚が作られたのは、安永8年/1779年のことだそうです。現在の新宿区戸塚にいた富士行者の「藤四郎」が、高田水稲荷の境内に築いたのが最初といわれています。
その後、文化・文政年間から明治にかけて富士塚築造が盛んとなり、江戸期には20基、明治から昭和10年/1936年までにさらに40基が作られました。
東京に現存する富士塚は42基。そのうち、江戸期に作られたもので残っているのは7基、さらに当時の姿を残しているものは3基だそうです。
江古田富士は、江戸時代後期、天保10年/1839年に築かれたとされています。(文化年間/1804〜1818年の間に築かれたとする説もあり。)
作ったのは「小竹丸祓講(こたけ まるはらいこう)」です。この講は「下練馬村・中新井村・中村」の各富士講から構成されていました。なお、このような連合体は珍しいそうです。
大きさは、高さ約8M・直径約30Mで、これは都内の富士塚の中では規模の大きい部類に入ります。登山道の両側や要所には、富士山の溶岩が配置されています。
また、この塚はもともと古墳であり、その南面の土を崩してから頂上に積み上げて作られたという説もあります。
大正12年/1923年の関東大震災によって壊れてしまいましたが、その後すぐに、復旧され、現在にいたっています。
しかし、復旧されたとはいえ、江古田富士は、江戸以来のかたちを残している3基のうちのひとつであり、その歴史的な価値はとても高いといえます。(残りの2基は、台東区下谷の「坂本富士」と豊島区高松町の「高松富士」。)
山頂には、天保10年/1839年に設置された祠がありますが、その他にも、「経ヶ嶽・太郎坊・小御嶽(こみたけ)神社」の石碑、「大天狗・烏天狗・神猿」の石像や、各種の碑などがあります。
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