江古田 大学と美容院の街


このページは、 ホームページ の下の 江古田あれこれ の下の 基礎知識 の下の ふたつの江古田 です。


江古田のなりたち:ふたつの江古田の謎

繰り返しになりますが、江古田のなりたちを知るためには、中野区と板橋区の歴史を知っておく必要があります。
とはいうものの、これがまたナンギな話でして...。

大昔の江古田(律令期から戦国時代まで)

律令期、武蔵国多摩郡には、10の郷があった。そのうちのひとつ「海田(あまだ)郷」に、中野・江古田が属していたとする説がある。(比田井 1995、中野区江古田地域センター1991:ともに出典は不明)
いずれにしても、当時、この地域には人はほとんど居住していない。

「江古田」という地名の文献上での初出は、以下のように考えられている。
いうまでもなく、それぞれの地名は、文献に記される以前から存在している。

江古田
「道灌状」(1480年/文明12年)
大田道灌が、山内上杉顕定の家臣高瀬民部少輔に宛てた、書状形式をとった記録。
この中に「江古田(ケ)原・沼袋の戦」(1476年/文明8年)に関する記述をみることができる。
「江古田原・沼袋の戦」は、太田道灌(1486年/文明18年没・暗殺)と豊島泰経らが戦ったもの。泰経はこの戦いに破れ、豊島氏の勢力は失われる。
戦没者の埋葬場所のひとつに「丸山塚」説がある。現・中野区丸山町の町名は、丸山塚からとられている。(埋葬地については諸説あり。)

江古田村
「小田原衆所領役帳」(1559年/永禄2年)
この中に「太田新六郎知行 五貫文 江戸江古田恒岡分」という記述をみることができる。
同書は、豊島氏・太田氏の次に豊島郡を支配した北条氏(後北条氏)の文書である。
内容は、家臣に諸役を課する際の、基準となる役高を記したものである。いうならば、家臣の領地および生産能力の一覧表のようなものである。
「恒岡分」とは、太田の配下である恒岡(つねおか)某への配当分という意味である。

江戸時代になって、江古田と中野は、「武蔵国多東(たとう)郡」から「武蔵国多摩郡」下の村となる。
多摩郡に移行した時期・理由は不明。
1591年/天正19年の検地の時点では「多東郡」である。
このことは、同年の「武州多東郡江古田村御縄打水帳」で確認される。
他には、「沼袋村・新井村・上高田村」など、現在の町名に対応する村が成立していた。

ふたつの江古田の始まり

今日、練馬区と中野区に、それぞれ「江古田」が存在し、混乱のもととなっている。実は、そのきっかけは江戸時代にあることがわかる。
すなわち、豊島郡江古田(現・練馬サイド)と多摩郡江古田(現・中野サイド)という、ふたつの江古田の存在である。

1600年代初頭から、多摩郡江古田村で新田開発が行われるようになる。
開発された地域は、江古田村の北東端 = 上板橋村の最南端であり、現在の江古田駅周辺(練馬区旭丘)である。
文献上では、「江古田村名寄水帳」(1652年/慶安5年)が初出とされている。
この中に、「新開ノ分」という、従来からのものと区別された田畑のあることが確認される。

1796年/寛政8年頃から、江古田新田は「豊島郡上板橋村」に属することになる。

ここに、今日、ふたつの江古田が併存する原因を見ることができる。

単純に「新田を作ったから江古田がふたつになった・新田部分が練馬の江古田になった」という理解では不十分だといえよう。

豊島郡に移行した理由は不明。
また、移行後も、貢租は「多摩郡江古田村太左衛門組」が取り扱っていた。

明治期の古老の話によると、江古田新田の住人は、江古田村のことを「向こう江古田」と呼んでいたという。
また、「江古田新田の名主は、向こう江古田の名主であった」と語っている。(堀野 1973)
なお、中野側の江古田の住人が、新田のことを「向こう江古田」と呼んだという記述もある。(須藤 1981)

豊島郡下では、上板橋村の小名(こな)として「江古田」(not 江古田"村")となる。
上板橋村は、川越街道第一の宿場(現・板橋区弥生町付近)のあったところである。
ただし、中山道の宿のあった下板橋とは比較にならない規模であり、「数軒の副業的商店が並んでいるに過ぎなかった」ようである。(根本 1952)

幕末までには、江古田・小竹を含め、11の小名が上板橋村にはあった。
小名は「小字(こあざ)」と同じ。(当然だが「大名(おおな)」もある。)
なお、上板橋村には「大字/大名」はなかった。

残念ながら、板橋区関連の文献からは「小名・江古田」に関する記述を見出すことはできなかった。
これは、貢租の取り扱いが多摩郡江古田村のために、豊島郡上板橋村側では文書が作成されていないためと推測される。
板橋区関連の文献・史料においては、徳丸・志村といった地域の研究が中心となっている。

江古田新田と江古田村の位置関係

江戸期の江古田付近

下記の図から、江古田新田 = 現・江古田駅付近の位置がわかる。
いいかえれば、上板橋村・下練馬村(現・羽沢地区)・中新井村(現・豊玉地区)・江古田村・落合村(図には名称の記入なし)の接しあうところに、「練馬の江古田」は成立していたのである。

江戸期の練馬地区の郡分け図

練馬区史編さん協議会 1982a p.302

大正・昭和初期の江古田付近

次に、もう少し具体的に両者の位置関係を確認する。

下記に掲出するのは、「武蔵野歴史地理」(1928)という書籍の付録としてつけられていた地図である。
近代的な測量にもとづいたものではないようで、あまり正確なものではない。
しかし、「江古田新田」の文字列が記載されているところが面白く、かつ駅名の表記にも興味をひく部分がある。
そこで、ひとつの資料的価値を認め掲出する次第である。

地図の作製元などは不明。
作成時期については、町名の表記・駅の設置状況から、1926年前後(大正末期〜昭和初年)の作成と判断される。(桜台駅が未設置)
江古田駅が「えごだ」と表記されていることに留意。

「江古田新田」は正規の町名・小名/字ではないが、ここでは記載されている。
北江古田公園を少し南に下ったところにある「東福寺」や、落合町(現・西落合)に近い「哲学堂」の名前も見える。
「中新井村」は、現在の練馬区豊玉地区。

大正時代の江古田付近の地図

武蔵野歴史地理 第一冊 1928 付録

現代の江古田駅付近と中野区江古田

時代が急に飛ぶが、上図との比較のために最近の地図を掲出する。
千川通りをはさんだ「旭丘1丁目」と線路の北側となる「旭丘2丁目」、そして「栄町・小竹町」の一部が、江古田新田と考えてよいだろう。
今日のわれわれの地理的イメージでは、「練馬の江古田」と「中野の江古田」は、江原町をはさんで離れた場所にある地域になっている。
しかし、現在の「江原町1-3丁目」は、もともと江古田村/旧・江古田2丁目であるので、両者は隣接していたことに留意されたい。(別項の「江原町の由来」を参照のこと)

現代の江古田近辺の地図

江古田村の人々と字(あざ)

本ページは、「練馬の 江古田」の歴史を概観することが主眼です。
しかし、「練馬の江古田」を理解する上で、本村である「中野の江古田」を知ることは、いくつかのヒントを与えてくれるでしょう。
そこで、名主や地名について、触れてみることにします。

近世の村の組織

太閤検地(1582年/天正10年〜1598年/慶長3年)の後、わが国の行政単位が「国→郡→村」となったことはすでに述べた。
村は、政治上の単位であるが、同時に納税の単位でもある。
村の行政は、「名主・組頭(年寄)・百姓代」などの村役人が自治的に行った。
これを「村方三役/地方(じかた)三役」と呼ぶ。

組頭は、いわゆる「五人組」の長ではない。五人組がいくつか集まったものを「組」と呼び、その長のことを指す。
組はまた、さらに小さな共同体の単位でもあった。
組頭は初期本百姓(草分け百姓)から選ばれることが多く、さらに、名主は、有力な組頭の中から選ばれることが多かった。
有力な名主の場合は世襲となることが多いが、1年交代や2名/2家で名主を勤める(相名主/あいなぬし)場合もあった。

江古田村の人口

江戸期以前の人口は記録が不十分のため、詳細はわかっていない。
1591年/天正19年の検地の際の文書では、53名の耕地名請け人の名前が記されている。
しかし、村全体の戸数・人口は記されていない。

江戸期に入ると記録があるが、2次資料間において記述が混乱している。1次資料の確認は後日行うこととし、ひとまず、以下の数字をあげておく。(中野区江古田地域センター 1984)
1725年/享保10年:戸数=41・人口=186
1867年/慶応3年(明治維新前年):戸数=37・人口=144

上記は、「孫右衛門組・庄左衛門/太左衛門組」2組の合計の数字だが、幕末にいたって人口が減じていることがわかる。
ただし、その理由は不明である。
これらの数字を見れば、江古田新田自体の規模も、ある程度の想像がつこう。

江古田村の名主

江戸初期〜中期においては、「孫右衛門組(深野家)・庄左衛門組(白井家)」の2名が相名主となって、江古田村を治めた。
深野家は、鎌倉時代からこの地に住んでいたといわれる。また、代々、孫右衛門を名乗った。
庄左衛門組は江古田新田も治めていたが、上に述べたように、1700年/元禄13年頃から、「太左衛門組」と、組の名前が変更されている。
ただし、過去帳などの古文書から、太左衛門が白井家の一族であることは確認されている。

この両組には別名があった。
東(ひがし)組=孫右衛門組(旧・江古田1丁目)
原(はら)/江古田原組=庄左衛門組(江原町全域/旧・江古田2丁目 + 現・江古田駅周辺/旧・江古田新田)
おそらくは、村の公文書などで使用するのではなく、村民同士で使用する組の通り名と思われるが、詳細は不明である。
この別名は昭和初期まで通用しており、ことに古老の間では近年にいたるまで使用されている。

江戸後期になると、村は「孫右衛門組(深野家)・太左衛門組(堀野家)・丸山組(後に喜兵衛組/山崎家)」の3つの組にわけられるようになった。
この時期の太左衛門組は、堀野治右衛門が名主を勤めていたが、「治右衛門組」にならなかった理由は不明である。
また、代々、堀野家は治右衛門を名乗った。
ちなみに、「深野・堀野・山崎」の3家が名主となっていたのは、この地域を領地とするご家人が多数いたため、各種の事務量が膨大なものであったためとされている。

江古田村の旧家

堀野は、江古田村の旧家として、以下の名前をあげている。(堀野 1973)
深野・堀野・佐久間・高崎・木村・白井・山崎・小川(便宜上、名字のみを記した。)
別ページでは、これらに加えて、石井・花崎・金子・宇佐見・須藤・清水をあげている。
名主・組頭ともに、これらの家々では本家・分家、さらには各家間での縁戚関係があり、外部・後世の人間には簡単に理解できない。

古文書にもとづく堀野の記述によれば、本家・分家をあわせた数は、以下のとおり。
深野家=8・堀野家=5・高崎家=4・山崎家=4・清水家=3(文書名・詳細な時代は不明)

江古田新田の旧家

「新田」とはいえ、江戸初期の段階で開発が行われていたわけで、そこでの「草分け百姓」は「旧家」といってよい。
須藤は、以下の名前をあげている。(須藤 1981)
木下・阿出川・三原・榎本・高崎・田中・天野
また、江古田村との交流は多かったということである。

江古田村の字

江古田村にも、何らかの由来や地形などにもとづいた小字名があった。
これらは、検地のための資料や種々の古文書からも確認できる。ただし、長い間には移り変わりがあり、また、それらのすべてを書き写すわけにもいかないので、代表的と思われるものをいくつか書き抜いてみる。
新編武蔵風土記稿での記載分:下記かっこ内は、原文にもとづくcatの注(蘆田 1981)
丸山(西側)・本村/ほんむら(東側)・大原(北側)・本田屋敷(中央部)・柏崎屋敷(南側)・小川屋敷(北側)・大籠原(西側)・小籠原(大籠原に隣接)
その他の各種文献から
徳田(とくでん)・天神山・和田山・寺山・西原・北ノ原(北原) etc...

近代の字と組

比較がしやすいように、明治期以降の字について、代表的なものをこちらであげておく。
1932年/昭和7年:東京35区制施行時(東京市 1932)

組については、明治以降も地域の自治の要として機能していた。
しかし、大正末期頃から、近代的な「町内会」設立の気運が高まり、当時の野方村が野方町になったのを機に、組織変更が行われた。
1925年/大正14年、東組は「親和会」となる。
とはいえ、その会長にはもとの組頭や名主の一族が着任することが多かったようである。

上述のように、江古田の組の別名に「東組・原組」があり、そのもととなった地名のことを考えあわせると、明治以降の時代が、江戸期と連続していることをうかがわせて興味深いものがあります。
また、旧名主/地主たちが、近代の地域社会において強い影響力を有していたことはいうまでもありません。

ページトップへのリンクがあります 本文のトップへ戻る


著作権表示 著作権者はcatです。サイト開設は2002年です。
ページの終端です。メタ情報エリアへ戻る。コンテンツメニューへ戻る。本文へ戻る。ページトップへ戻る。