江古田 大学と美容院の街


このページは、 ホームページ の下の 江古田あれこれ の下の 基礎知識 の下の 駅と鉄道史 です。


江古田駅の謎

「江古田」という地名に多くの謎があるように、「江古田駅」にもいろいろな謎があります。

たとえば、「由来と語源」のページでも触れたとおり、「江古田駅の駅名は、本来『えごた』にするべきところ、鉄道会社が誤って『えこだ』にしてしまった」という人たちがいます。実際、「練馬の江古田」のページで掲出したように、駅名を「えごた」としている地図も発見されています。
では、ほんとうに「えごた」駅として、設置・開業されたのでしょうか。
また、現在の駅舎は2010/平成22年に立派な橋上駅舎となりましたが、それ以前はどのようなかたちをしていたのでしょう。

ここでは、そんな江古田駅のあれやこれやを探っていきます。珍しい資料もありますので、しばし楽しんでいただければ幸いです。
なお、わたし/catは鉄分がまったくない人間です。鉄道ファンの方からみると、視点や調査方法が違うかもしれません。「いや、そこじゃなくて、こういう話を知りたいんだ」ということもあるでしょう。
その辺りのことは、大目にみていただけると助かります。

目次:情報量が多くスクロール量が増えたので、主要項目にジャンプできるようにしました。

武蔵野鉄道から西武鉄道へ

現在の西武鉄道は、東京北西部のいくつかの私鉄が合併してできた会社である。そして、西武池袋線の前身が「武蔵野鉄道」である。

それが西武鉄道になる経緯の概略は以下のとおり。(詳細は西武鉄道サイト内の「歴史・沿革ページ」などを参照のこと)

...という感じである。(武蔵野鉄道社史 2002 をもとに cat が加筆・修正)

第2次世界大戦末期、東京都から依頼を受けた武蔵野鉄道は、都内で集められた屎尿の運搬を開始する。近郊農家が使用する肥料にするためである。(高嶋 2002: 105) また、「木製タンクの貨車からは揺れるたびに時折洩れ出る糞尿が、しぶきとなって飛んできた」という。(在りし日 2008)
このため、「下肥(しもごえ)鉄道」「黄金電車」と揶揄された。今風にいえば「ウ○コ電車」というところであろうか。
この経緯・揶揄は、現在の西武新宿線も同じである。ことに、新宿線は「川越鉄道」が出発点なので、韻を踏んだのかもしれない。

いきなり尾籠な話になってしまったので、鉄道史らしい話題に戻してから次項に進みたい。

西武鉄道の一路線となった武蔵野鉄道は、そのまま「武蔵野線」を名のることとなった。(青木 2002: 96)
さらに、1952/昭和27年、村山・川越線の「高田馬場-西武新宿間」の延伸に際して、西武鉄道は各路線名を変更することとなった。(高嶋 2002: 106)
今日の「池袋線・新宿線」という路線名は、そこから始まったのである。

ページトップへのリンクがあります このページのトップへ戻る

江古田駅のなりたち:停留場から停車場へ

はじめに

「江古田のなりたち」ページからもわかるように、江古田という地名・町名のないところに江古田駅が作られたのではない。
ましてや、「中野区江古田をパクって駅名をつけた」わけでもない。

現在、駅のあるところは、江戸時代から「江古田」だったし、1960年/昭和35年に町名が変更されるまでは「江古田町」だった。
ということで、まずは練馬区に江古田駅があってもなんの不思議はないことをご理解いただきたい。
その上で、ちょっと江古田駅について考えてみることとしたい。

江古田駅はなぜ「江古田」なのか

前項に記したとおり、武蔵野鉄道江古田駅は1922年/大正11年に開業した。
また、当初の駅の位置は、現在のものとは少し異なっていた。

まず、旧制武蔵高等学校の開学にあわせ、江古田駅が開業される。
後出の鉄道大臣あての届出書には「停留場」とある。また、「4月17日より使用したい」と記してあるが、これは同校の第1回入学式の日付である。(武蔵学園 a)

公的な資料の裏づけは得られていないが、武蔵学園の鈴木によれば「朝、夕の2回だけ蒸気機関車が停車」し、「学校でも武蔵野鉄道に通学の便をはかってもらうということで別途お金を支払っていた記録」があるという。(鈴木 ed. 2010)
これらのことから、同駅が同校生徒の通学の便のためという性格を帯びていることが推測される。
ちなみに、同校は「鉄道王・民鉄の雄」と称された根津嘉一郎が創設したものである。(武藏学園 b, コトバンク) そうして、同校開校の前後でも、1920/大正9年に東京地下鉄道(現東京メトロ)取締役、1922/大正11年に南海鉄道・西武鉄道・秩父鉄道各取締役、1926/大正15年に鉄道同志会会長に就任している。(武蔵学園 b)
このように鉄道界に大きな力を有していたであろう根津が、江古田駅設置についてなんらかの働きかけをおこなったと考えることも十分に可能である。

さて、江古田駅(停留場)の位置は「武蔵野稲荷神社」のそばとされ、駅舎などはなく「枕木を積み重ねた簡単なホーム」であったというが、詳細は不明である。(練馬区教育委員会 1983: 11)
同神社の「境内にあった」という取材記事もあるが、「神社のごく近く」の意味と思われる。(中原 2008: 50)

1924年/大正13年、位置をやや東側(池袋寄り)に移し新しい駅舎が開設される。
設置申請書には「江古田停車場」への変更・移転であることが記されている。

この駅(停車場)の敷地は地主が寄付をおこなった。(堀野 1973: 179)
堀野によれば、江古田停留場開設後、下練馬村/練馬南町の「正久保橋の水車の新井七五郎」さん・江古田新田の「榎本・阿出川・田口」さんらと会合し、「江古田駅の位置について相談した」という。そうして、「新井さんは、そのためのに相当の土地を寄付した」という。
戦前までの大地主について同じような話をよく聞くが、水車の新井さんも「正久保橋から江古田駅まで他人の土地を通らずにいくことができた」と伝わっている。(新井家の水車は、現在の「サミットストア氷川台駅前店」のところにあった)
なお、中野の江古田の人間である堀野も、現在の三菱UFJ銀行から駅に向かう道の拡張に際し、土地および相当額の寄付をおこなったと記している。

この土地提供の話題から、ひとつ目の疑問が浮かびあがる。
それは、江古田駅は「なぜ江古田という名の駅」なのかということである。
「ふたつの江古田」ページで記したとおり、練馬の江古田は中野の江古田村が新田として開発したところである。そうして、そこは明治になってからも「上板橋村」の江古田であった。

すなわち、下練馬村に設置した駅に対して、上板橋村の地名を冠したのはなぜかという疑問である。ついでにいえば、「水車の新井七五郎さん」はそのことに異議を唱えなかったのかということである。
この点についても資料はみつかっておらず、今後の調査を待つしかないのが悔しいところである。(まぁ、こんなことで資料をみつけようというのは、わたし/catぐらいしかいないだろうが)

公文書から考える

fig.1 江古田停留場および江古田停車場の設置申請書(鉄道局 1923, 1924)
江古田停留場および江古田停車場の設置認可申請書

左の「届出書」を読むと、東長崎駅と練馬駅の間には駅がなかったことがわかる。
右の「設置認可申請書」を読むと、それまでの停留場が「仮設」のものであること・そこから移転の上で停車場にすること・東大泉にも停車場を設置することがわかる。

この文書をみれば、江古田駅の歴史に関する記事において多用される、「仮駅」「本駅」「武蔵高等学校用仮停留所」という文言が適切さを欠くことがわかる。
上出のように、停留場も駅と定義されており、監督官庁に「江古田停留場・停車場」として届け出・申請がなされているからである。
さらにいえば、上記申請書における「仮設」という文言も、まさに「枕木を積んだだけ」の状態を表すものと解すべきだろう。

だが、その駅の位置や移転の詳細について、資料から得られる情報は多くない。
1927/昭和2年および1934/昭和9年の「鉄道停車場一覧」には、それぞれ「東京府北豊島郡練馬村(下練馬)」「板橋区練馬南町一丁目」との記載がある。(鉄道省 1927 1934)

平塚は、江古田停車場の位置は、現在の地下横断歩道の出入り口あたりだと記している。(平塚 2008: 54)
さらに、上出の練馬区教育委員会および堀野の記述からは、最初の江古田駅(停留場)から現在位置に移る間に、複数回の移転がなされたように読める。しかしながら、そのことについて具体的な記述はなされていない。
また、これらの文献では、移転の方角も異なっている。

これらの点については後述するが、もう少し申請書に着目してみたい。

この「認可申請書」には、新設する「停車場」はそれまでの「停留場」より東側(池袋駅寄り)に移すことが記されている。
ところが、それをうけた(当時の)鉄道省側の文書では、「停留場」より西側(練馬駅寄り)に移転すると記されている。

fig.2 鉄道省各部局の確認書(鉄道局 1924)
江古田停留場を停車場に変更する際の鉄道省文書

上掲の鉄道省文書には、ヤード・ポンド法によって、「停留場」は池袋起点から2哩(マイル)66鎖(チェイン)にあり、新設する「停車場」が2哩(マイル)77鎖(チェイン)70節(リンク)のところに移転すると記されている。
すなわち、設置認可申請書での申請内容とは逆になっている。(方向はともかく、移動距離は約220mである)
おそらくは鉄道省側担当者の誤記であろうが、それにしてものどかな話である。

いずれにせよ、1924年/大正13年設置の江古田停車場の駅舎が、その後、どのような移転をおこなったのかを明らかにする公文書およびそれに準ずる資料は発見できていない。よって、さらに多角的な調査をおこなうことが必要である。

ページトップへのリンクがあります このページのトップへ戻る

江古田停留場および駅舎移転回数の確定

航空写真からわかること

ある建築物がどこにあり、どのように変化したかを知る上で、航空写真の利用はひとつの手がかりを与えてくれる。
下記の4葉は、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」における利用申請不要のものから該当箇所をクローズアップしたものである。
最初のものは基本の地図であり、目印として南口の駅前広場のところに「十字」のマークを打ってある。
2葉目と4葉目は、1947/昭和22年および1947/昭和22年に撮影されたものである。

fig.3 江古田駅周辺地図
江古田駅周辺の地図

fig.4 戦後まもない江古田駅周辺(1947/昭和22年7月24日・米軍撮影)
江古田駅周辺の航空写真

fig.5 2021/令和3年時点の地図と1947/昭和22年の写真の重ね図
江古田駅周辺の重ね図

fig.6 高度成長期下の江古田駅周辺(1963/昭和38年6月26日・国土地理院撮影)
江古田駅周辺の航空写真

fig.4-5をみると、上で平塚が述べているとおり、「現在の地下横断歩道の南側出入り口」にあたる部分に停車場駅舎があることがよくわかる。また、ホームは現在よりも短く、現在の東側にある部分が存在しないこと、東長崎寄り踏切のところに「貨物用側線のホーム」があることもわかる。
いずれにせよ、最初の江古田停車場の場所については、これで確定である。

江古田停留場はどこにあったのか。

江古田停留場の位置について、平塚および鈴木は「武蔵野稲荷神社の裏」であると明示している。(平塚 2008: 61 鈴木 2010)
多くの文献が「神社のそば」としか記していないとき、この証言は貴重である。(ことに平塚は図示もしている) だが、この件についても資料的な裏づけが必要である。
このとき、「fig.2 鉄道省各部局の確認書」の内容と上掲のfig.5から、最初の江古田駅(停留場)の位置は比較的たやすく明らかにすることができる。

fig.7 地下横断歩道入り口から西に11鎖70節の地点
地下横断歩道から直線距離で220メートルを計測した地図

上図は、国土地理院の「地理院地図・計測ツール」を利用し、地下横断歩道出入り口の垂直線上にある線路を起点として、移動距離を算出したものである。
「各部局確認書」に記されている「2哩66鎖」「2哩77鎖70節」を引き算および換算し、221メートル40センチにあたる地点をマークした。
「武蔵野稲荷神社の近く」どころか、みごとに(平塚および鈴木の記述に違わず)「社殿の真裏」である。

では、ここにホームを作ったとして、武蔵の生徒たちはどのような経路で利用していたのだろうか。
ひとつは、正門を出て正面の道を北上し、踏切のあるところで線路沿いに右折するルート。もっとも、国土地理院の航空写真をみる限り、たとえば戦後すぐの時点でも社殿の裏手は木が生い茂っており、とても道があるようには思えない。おそらくは、線路際を歩くような感じの裏道だったと思われる。
もうひとつは、武蔵野稲荷神社の参道を入って社殿の裏を左折するもの。しかし、このルートは「参道を生活道路に使おう」という罰当たりものであるわけで、さすがにそれはなかっただろう。

江古田停車場は、何回、移転したのか。

fig.6での駅舎をみると「北口」(の階段)の存在を確認できる。もっとも、北口開業は同年9月なので、正確には「完成間近の北口」がみえるというべきか。
それはさておき、その後、北口および跨線橋は現在の駅舎になるまで変わらなかった。
そこから考えても、この1963/昭和38年撮影の写真にある駅舎が、現在の駅舎の前身といってよい。

また、平塚は現在の駅舎の前の駅舎は、停留場から数えて3代目であるとしており、1958/昭和33年に駅舎がさらに東側に移転し、出入り口が線路に対して垂直に向かうかたちになったと記している。(平塚 2008: 54, 後出の注記を参照のこと)

次項のfig.9によって、1956/昭和31年の時点で、駅舎は2代目(江古田停車場)のままであることがわかる。第二次世界大戦を挟むとはいえ、いってみれば「築32年」なのだから現役で当然だろう。
それでは、ほんとうに、fig.6の駅舎が2010/平成22年の大改築まで(51年間も)現役だったのだろうか。

そのとおり、現役だったのである。
公文書ではないのだが、練馬区が作成した住民説明会のパンフレットに、その答えを見出すことができる。
「江古田駅改築および駅周辺整備説明会のご報告」と題されたそれは、平成20年4月付で「練馬区/西武鉄道株式会社」の連名で作成されている。
そうして、「◆江古田駅改築および駅周辺整備説明会を開催しました!」という見出しに続き、「江古田駅の駅舎は昭和34年に建設され、エレベーターやエスカレーター等のバリアフリー施設がありません」という一文から始まっている。(練馬区 2008)

今回、1958/昭和33年前後の江古田駅周辺の航空写真を入手することはできなかった。
だが、駅舎の移転の方向は東方面だけであったこと、現在の駅舎になるまで、初代(停留場)・2代目(停車場)および3代目という2回の移転があったことを、裏づけをもって明確にできたのは収穫といえよう。

ページトップへのリンクがあります このページのトップへ戻る

江古田駅のかたち:駅舎の移り変わり

航空写真は位置を知る手がかりにはなるが、やはり平面からの駅舎の姿をみたいものである。
とはいえ、さすがに最初の江古田駅(江古田停留場)の写真は残っていないようである。
それなりの駅舎でもあれば話は違ったろうが、上出のような「枕木を積み重ねた簡単なホーム」では、わざわざ写真に撮って記録しようという人間などいなくて当然である。

これに対し、移転後の江古田駅(江古田停車場)については画像が残っている。
以下、主要なものについて紹介する。(なお、下記の6葉はいずれも練馬区所蔵のもので、今回、区からの使用許可を得て掲出している)

fig.8 最初期の江古田駅 01
おそらく昭和の初め頃の江古田駅

これは、駅の西側(練馬駅方面側)から撮影されたものである。
画面右側に「貨物用側線」(平塚 2008)がみえるが、これは2021年現在、「Tully's Coffee」があるあたりである。
そうして、側線が分岐するあたりに建っているのが駅舎である。

なお、電柱・電線の存在から、撮影時期は時代を下ったものと思われるかもしれない。
だが、武蔵野鉄道は関東の私鉄としてはかなり早い段階で電化を進めており、江古田停留場開業の年(1922/大正11年)には、池袋-所沢間の電化を終えている。また、明治以来、鉄道は直流600Vが基本だったところ、同社は直流1200Vでの電化をおこなっている。(中川 1969: 20, 岩成 2013: 11)

ホームには屋根もないが、敷地の様子をみれば立派な停車場であることはわかる。また、練馬駅側のホームのスロープを降り、構内の線路を渡って駅舎にいくようになっていることがわかる。

fig.9 最初期の江古田駅 02
江古田駅から出てくる女性

こちらは、ほぼ同じ頃に撮影されたと思しき写真。線路脇の杭を利用した垣根の高さ・密度が異なっているようにみえることから、数年の時間差があると考えられる。

なお、駅舎の出入り口は人力車の止まっている側である。すなわち、線路と並行に乗客は駅舎に出入りする。これは、1959/昭和34年まで続く。
黒く潰れてしまっているため、駅舎内部の様子がわからないのが残念である。

それにしても、当時のカメラの性能などからいって、この写真は構図などが決まりすぎている感がある。もしかして、撮影者の家族・知人をモデルにしたのだろうか。

それはさておき、1925/大正14年4月17日付の朝日新聞に不思議な記事が載っている。(p.10 原文はルビつき)

江古田驛の賑ひ
武蔵野鐵道の江古田驛では十六日新築祝賀會を催したが近在からの人出盛んにして非常の賑はひ呈した

いうまでもなく、江古田停車場の開業は1924/大正13年である。では、この「新築」とは何を指すのだろう。
江古田停車場開業時に駅舎が完成しておらず、開業の翌年に駅舎ができたという話なのだろうか。
調べれば調べるほど、謎が増えていくのは困りものである。

fig.10 1956/昭和31年の江古田駅
駅舎出入り口付近での出勤風景

いきなり時代が飛ぶ。だが、最初期の写真と較べても、駅舎のかたち(二重になった屋根など)は変わっていないことがわかる。
冬の朝、数日前に降ったであろう雪(雨?)のぬかるみを避けようとしている女性の姿がキュートである。
また、画面左、「まるや質店」の広告のある電柱に隠れてわかりにくいが、駅舎手前の小さな建築物は売店である。ちなみに、その屋根に掲げられているのは「タバコ」の文字の「バコ」の部分である。
なお、出入り口が今日のように線路と直角になるように改築されたのは1959/昭和34年である。この時、「追い越し設備」が使用開始されている。(名取 2013: 235)

fig.11 ホーム端のスロープ
ホーム端のスロープから駅舎にいく乗客

こちらも1956年の撮影。乗客が、ホームを降り構内踏切を渡って駅舎に向かおうとしている。2020年の時点でも、このような形式の駅がわずかながら残っているが、当時はありふれたものだった。
なお、東長崎側・桜台側のそれぞれの踏切には、1970/昭和45年ごろまで「踏切番小屋」があった。(廃止の年月日は不明)

fig.12 いわゆる江古田駅南口
出入り口が変わった後の江古田駅舎

1967年の撮影。現在の駅舎の前は、こんな顔の駅だった。この時点で北口は稼働しているが、跨線橋の部分は見えていない。
なお、画面左側で、リヤカーに積んできた荷物を窓口に乗せようとしている人がいる。これは「チッキ」の窓口と思われる。

fig.13 江古田駅北口
浅間神社入り口からみた北口改札への階段

こちらは1963/昭和38年の撮影。翌年のオリンピックにあわせたのだろうか。この写真ではわからないが、日本大学芸術学部(日藝)側に降りていく階段も設置されている。また、階段を上った左側、道の上に出っ張っている部分が出札である。
この跨線橋については興味深い記事がある。(朝日新聞 1963: 16)
まず、見出しと記事冒頭部分である。

「北側の渡線橋ほぼ完成」
西武池袋線江古田駅の北側に建造中の出、改札口と渡線橋がほとんど完成、八日ごろ開通の運びになった。

「ほぼ」とか「八日『ごろ』」とかではなく、ちゃんと完成してから報道すればよいのに、ちょっと理解に苦しむ記事ではある。
とはいえ、この記事における興味深い点は下記のデータにある。

さらに下って、1999年/平成11年3月27日に、北口の浅間神社の横から「地下横断歩道」が開設される。
江古田駅は急行の通過待ちがおこなわれることもあり、ラッシュ時の踏み切りは「開かずの踏み切り」である。
少なくとも、歩行者にとっては便利になった。
【付記】 2009年から、急行の通過待ちはひとあし先に改修された東長崎駅でおこなわれるようになった。

そして、2010年/平成22年1月から、江古田駅および駅周辺は大きく変わることとなった。
おもむきという点では面白みのない駅になってしまったが、バリアフリー化によって高齢者の外出意欲が増すのであれば、それは喜ばしいことである。

本項の最後にあたって、1点、旧北口改札口の写真を紹介する。
ややわかりにくいが、改札を出た先で、左右に別れて階段を降りていくわけである。「このスペースで北口利用者をさばいていたのか」と、今さらながら驚かされる。
そうして、改札の奥にみえる券売機のところには「出札」があった。
つまり、1990/平成2年頃までは、改札に駅員さんが立っていて、ハサミをカチャカチャさせながら切符に入鋏し、道に突き出た出札で同じく駅員さんがいわゆる「硬券」というのを手売りしていたのである。(若者には意味不明か?)
本コンテンツの趣旨からはややはずれるが、北口利用者だった人間にとって貴重な資料として掲出した次第。

fig.14 改修直前の江古田駅北口改札口(コロップル 2010)
古い江古田駅北口改札口

なお、引用元のブログ「西武線通勤電車の毎日」は2014年01月17日をもって更新終了している。また、ブログから移行するとされた twitter アカウントもなくなっている。

ページトップへのリンクがあります このページのトップへ戻る

江古田駅の読み:あらためて公文書を確認する

申請書の別ページをみる

江古田をどう読むかという論議において、「駅開業の際、鉄道会社が誤った読みで駅名をつけたのではないか」という話題が出ることがある。
つまり、本来は「えごた」であるのに、「えこだ」と名づけてしまったために、「江古田の読みの混乱」が生じたというものである。
だが、その裏づけとなる資料・証拠は示されることもないまま、地名の江古田と同様、「えごた駅本来説」がネット上でコピーされていくという流れがあるようだ。

「江古田の由来と語源」の項でも述べたように、一種の地域開発をおこなう鉄道会社が地元の地名を調べもせず、さらには誤った名前をつけるということはにわかには信じにくい。
とはいえ、その辺の事情・経緯に関する資料は発見されていないことも事実である。
また、現在の西武鉄道も資料がないために不明であるとしている。

しかし、「江古田停車場設置認可申請書」の中に、興味深い記述をみることができる。

fig.15 江古田停車場設置認可申請書・別紙 (鉄道局 1924)
江古田停車場設置認可申請書における駅名のふりがながある部分

上掲の文書をみると、駅名は「エゴダ」で申請されていることがわかる。
これも、「江古田の語源と由来」の項で指摘したように、昭和のある時期までは「えごだ」という発音は一般的なものであった。
そのことから考えると、「江古田停車場」が「えごだ」という駅名で設置された可能性はゼロではないだろう。(「停留場」設置に関する文書内には、読みがわかる部分はなかった)

ただし、その横の「東大泉駅」に対して、「ヲホイヅミ」と読みがながふられていることに着目しなければならない。
いうまでもなく、「大」のかな遣いは「オホ」なので、「ヲホ」は誤記である。
このような書き手の仮名づかいの誤りをみるとき、「エゴダ」という表記/読みに関する信頼性については留保が必要であろう。

官報を確認する

駅名について、さらに重要な文書・根拠として「官報」がある。
fig.16 地方鉄道停留場設置 (官報 1922)
江古田停留場設置申請に関する官報記事

画像が不鮮明なため、以下、書き起こす。なお、漢字・仮名づかいは現代のものに置き換え、句読点などを補う。

● 地方鉄道停留場設置
武蔵野鉄道株式会社より、所属鉄道「東長崎-練馬」間に江古田停留場を設置し、本月1日より営業開始の旨届け出を得たり。
その哩程、左のごとし。(鉄道省)
 東長崎江古田間 0哩8分  江古田練馬間 1哩0分

そうして、江古田の文字列に「ゑこだ」と読みがながふってある。
「江古田の由来と語源」ページで記したとおり、江古田の「江」は、旧仮名づかいにおいても「え/エ」と表記する。
したがって、ここでの「ゑ」も誤記あるいは誤植と考えるべきだろう。

官報といえば官報であり、そこでの発表は絶対である。
もちろん官報にも誤記はあり、その場合、次号以降で訂正記事が出される。だが、5号分は確認したが、本件に関する訂正記事は出ていなかった。

ということで、考えなければならない点はふたつである。

  1. 武蔵野鉄道は江古田駅の駅名をどうしたかったのか。
    1. 設置申請書のとおり「えごだ」にしたかった。
    2. えこだ・えごた・えこた」(のいずれか)にしたかった。(が、設置申請書で書き間違えた)
  2. 官報の「えこだ」という読みは、何に依ったものなのか。
    1. 鉄道局からの文書に「えこだ」とあったので、そのまま記載した。(ただし「え」と「ゑ」を間違えた)
    2. 鉄道局からの文書は「えごた・えごだ・えこた」(のいずれか)だったが、原稿作成時に書き間違えた。(なおかつ「え」の字を間違えた)

とりあえずまとめてみる

もっとも基本となるべき文書で混乱があるのは困りものである。(駅名表記の混乱に関する資料は他にもあるのだが、記事化・掲載は後日ということにしたい)

ただ、昭和初期の鉄道省による「停車場一覧」には「えこだ」と記されている。(鉄道省 1927 1934)
また、「由来と語源」ページで報告したとおり、「新編武蔵風土記稿」によれば、中野の江古田も練馬の江古田も「えこだ」であった。
これらをあわせ考えると、現時点では、駅名は最初から「えこだ」だったということでよいだろう。

【付記】なお、「1975/昭和50年5月の1か月間のみ『えごた』の駅名標が掲げられた」という事例がネット上で報告されている。

fig.17 「えごた」と記された駅名標(デトニ 2001)
えごたと記された駅名標

この写真は、1975年5月15日に西武池袋線池袋駅でおこなわれた「お召し列車のリハーサル」を撮影したページに付加されているもの。
なお、引用元の「デトニの写真館」サイトは2007年2月27日で更新停止となっている。また、掲示板も失われている。

ページトップへのリンクがあります このページのトップへ戻る

公文書からみる江古田駅設置までの経緯

上に掲出した文書は、いずれも武蔵野鉄道株式会社と鉄道省の間で交わされた公文書の一部である。
では、具体的には、どのような流れで「江古田停留場・江古田停車場」は設置されたのであろうか。
以下、記録を時系列順に追ってみることとする。(上掲のもの以外の確認書・起案書などの画像の掲出は後日とする)

1922/大正11年 届出書 4月8日付(4月10日受領印)…武鉄発第30号
申請先:元田肇鉄道大臣
申請者:石川幾太郎武蔵野鉄道株式会社取締役社長

1922/大正11年 鉄道省各部局確認書 4月10日-11日
総務課・業務課・技術課での確認。
件名…江古田停留所設置届

1922/大正11年 鉄道省起案書 4月18日達済…第1676号
武蔵野鉄道会社長宛

1922/大正11年 届出書再提出願 5月付(5月9日受領印)
申請先:元田肇鉄道大臣
申請者:石川幾太郎武蔵野鉄道株式会社取締役社長

1922/大正11年 鉄道省各部局確認書 5月9日-18日
総務課・業務課・技術課での確認。
件名…江古田停留所設置届の件

1922/大正11年 届出書再提出分 5月付(5月9日受領印)
申請先:元田肇鉄道大臣
申請者:石川幾太郎武蔵野鉄道株式会社取締役社長

1922/大正11年 鉄道省各部局確認書 5月9日-18日
総務課・業務課・技術課での確認。
件名…江古田停留場設置届の件

1922/大正11年 鉄道省起案書 5月10日達…第2220号

1922/大正11年 申請書 10月26日付(10月27日受領印)…武鉄発第84号
申請先:大木遠吉伯爵鉄道大臣
申請者:石川幾太郎武蔵野鉄道株式会社社長
件名…既認可工事方法書中一部変更認可申請

1922/大正11年 鉄道省起案書(督促状)…第2220号2-4

1923/大正12年 回答書 3月16日付(3月17日受領印)…武鉄発第42号
申請先:井出繁三郎鉄道省監督局長
申請者:石川幾太郎武蔵野鉄道株式会社社長

1923/大正12年 鉄道省各部局確認書 3月19-20日付
総務課・業務課・技術課での確認。
件名…江古田停留場設置届の件(回答)

1924/大正13年 停車場設置許可申請 9月17日付…武鉄発第88号
申請先:仙石貢鉄道大臣
申請者:石川幾太郎武蔵野鉄道株式会社社長

1924/大正13年 鉄道省各部局確認書 9月22日-10月1日

1924/大正13年 鉄道省起案書 10月2日立案・10月30日受領…第5672号2

国立公文書館で得られた資料から確認できる、江古田駅設置に関するやりとりの流れは以上である。
今後、新たな資料が発掘されるまで、江古田駅をめぐる謎解きの旅は終わらないだろう。

ページトップへのリンクがあります このページのトップへ戻る

まとめらしくないまとめ

とりあえずの確認

ということで、「江古田の由来と語源」ページ同様、積み残しの課題は多い。それでも、それなりに成果を得られた部分もある。

西武鉄道へのお願い

2019/平成31年1月、「公益財団法人練馬区環境まちづくり公社 みどりのまちづくりセンター」なる団体による「新春! 超・江古田研究会」という催し物に参加した。とりたてて成果はなかったのだが、ひとつ印象に残った発言があった。
それは、長く西武鉄道にいらした方による、「江古田駅の開業は11月なので、それまでは内々で営業していたと思われる」(大意)というものである。

上記のように、武蔵野鉄道はきちんと鉄道省とやりとりをおこなっている。
また、根津育英会(旧制武蔵高等学校の母体)の創設者である根津嘉一郎は、すでに多くの鉄道会社の設立・経営として責任ある立場にあった。その彼が、自分の学校の生徒のためとはいえ、列車を「内々」に運行させることに加担したとも考えにくい。
もちろん、官報での公告が11月である以上、旧制武蔵高等学校の4月開校から7か月にわたる運行は「公的なものではない」という考え方は妥当なものである。
しかし、もし、駅設置の届出が認められず公告も出せない状態ならば、鉄道省はなぜ運行停止を命じなかったのだろう。根津から圧力でもかけられてのだろうか。

いうまでもなく、わたし/cat 個人としてはどちらでもいい話である。
「闇営業」でも「内々」でも「黙認」でも「書類が遅れてるだけなんで、ふつうに走らせてもらっていいですよ。たかだか停留場なんで」的なノリでも、なんでもかまわない。
ただ、「内々」というのであれば、その定義を明確にしかつ裏づけにそって論じたいというだけである。

現在の西武鉄道は大手企業でありながら「社史」を持っていない。確かに、同社はいくつもの鉄道会社の合併の結果であり、社史制作が困難なことも事実である。
それでも、社史がないために「内々と思われる」というような推測に頼らざるを得ない状況は望ましいことではない。
なんとかしていただけないだろうか。

とまぁ、それはそれ。大切なのは「自分ができることをやる」ということなのだが、ハードディスクの中に眠っている各種の公文書の画像ファイルが日の目を見るのはいつのことだろう。(時間とけっこうな費用をかけたのに、本ページ上の4葉しか使用していないのはもったいなさすぎる)

ページトップへのリンクがあります このページのトップへ戻る


著作権表示 著作権者はcatです。サイト開設は2002年です。
ページの終端です。メタ情報エリアへ戻る。コンテンツメニューへ戻る。本文へ戻る。ページトップへ戻る。