江古田 大学と美容院の街


このページは、 ホームページ の下の 江古田あれこれ の下の 江古田の基礎知識 です。


練馬と江古田の基礎知識

はじめに

このページでは、練馬と江古田の地誌・なりたちについて、簡単にまとめてみました。
とはいえ、ちょっと量があります。

ご用とお急ぎの方は(^_^; 、このページの下方にある「ダイジェスト版」をご利用ください。
また、同じくこのページの下方に「更新・訂正」欄を設けてあります。ときどき目を通してください。

コンテンツ

  1. 練馬と江古田の基礎知識(このページです)
  2. 練馬の地勢
  3. 練馬のなりたちと由来
  4. 江古田のなりたち 01:ふたつの江古田の謎
  5. 江古田のなりたち 02:練馬の江古田の始まりと終わり
  6. 江古田の語源と読み方
  7. 江古田駅のなりたち:武蔵野鉄道から西武鉄道へ
  8. 交通機関
  9. おまけ:江原町のなりたち
  10. 参考・引用文献

基礎の基礎と早わかり

おことわりとお願い

以下のページは、本サイト( = 江古田:大学と美容院の街)をより楽しむための「補足資料/サブコンテンツ」という位置づけです。一般的な地域情報や専門的な地誌的知見は掲載していません。

わたし/catは歴史に関しては素人です。そのため、誤解・理解不足などにもとづく記述も多々あると思います。その旨、あらかじめご了承ください。
また、誤認に対する指摘・不足部分の補完など、ご協力たまわりたく、お願い申しあげる次第です。

用語と表現について

文中、「不明」とあるのは、区史などにあたったが、記述がなかったり出典が明記されていなかった場合。「未調査」は、わたし/catが、文献にあたっていない場合です。

一部、今日の基準からは不適切とされている表現を使用しています。これは、参照文献および古老の表現などを尊重し、かつ歴史的な視点からの必要性を勘案したためです。ご了解ください。

行政区画の基礎知識

街の歴史を知る上で、行政区画・単位を知っておくと便利です。ちょっとメンドクサイかもしれませんが、頭に入れておいてください。
いちおう、こんぐらがらないように、もっとも大きい制度変更のみをあげてあります。

行政上の区画について 01:古代〜近世

行政上の区画について 02:近代

行政上の区画について 03:東京について

基礎知識のダイジェスト:江古田の謎の早わかり

練馬区ってどんなとこ?

東京都23区の北西部にあります。23区で5番目に大きな区です。
また、1947年/昭和22年8月に成立した、もっとも新しい区でもあります。
「ねりま」と読みますが、なんでそんな名前になったのかはわかっていません。

練馬区には「江古田」って地名がないのに、どうして「江古田」なの?

現在の江古田駅付近は「江古田」だったんです。
時代によって、ただの「江古田」だったり「江古田町」だったりしましたが…。

中野区の江古田と関係があるのかな?

あります。
中野の江古田は、少なくとも室町時代には「江古田」でした。
この江古田村が、江戸時代の初め頃から、村の北部で新田開発を始めます。
そうして生まれた「江古田新田」が、現在の江古田駅周辺(旭丘1-2丁目)にあたります。

どうして練馬と中野と「ふたつの江古田」があるの?

実は、ここら辺が複雑なんです。
練馬の江古田(旧・江古田新田地域)は、所属する行政単位が2回変わっています。
現在の23区の区分に置き換えると、「中野→板橋→練馬」ということになります。
もう少し詳しくいうと、「多摩郡江古田村(の江古田新田)→豊島郡上板橋村江古田→板橋区上板橋町江古田→練馬区江古田町」という流れです。
つまり、江戸時代に新田と本村が「別々の郡にわかれた」ために、「ふたつの江古田」が生まれたのです。

江古田の地名の由来はなんですか?

わかっていません。
江戸時代のもっとも信頼できる地誌の本にも、「あきらかでない」と書かれています。
学校の副読本や各種の資料では、「えごの木が生えていたから」という説を、最初にあげるケースが多いようです。
けれど、この説は、明治後期〜大正時代にある研究者が唱えたものです。地元の言い伝えなどとは関係ありません。

「えこだ」と「えごた」、どっちが正しいの?

これもわかっていません。
というより、「どちらが正解か」という話ではないというべきでしょう。
上で例にあげた江戸時代の地誌の本では、中野側も練馬側も、ともに「江古田 えこだ」と読みがふられています。 明治期以降の資料をみていると、表記はばらけていきます。
「えごだ」と発音する事例も多かったようですが、「『えごだ』と両方濁るとナンだから、『えごた』というようになった」と、ある旧家の方がお書きになっています。
現在では、「練馬サイド=えこだ」「中野サイド=えごた」という使いわけがなされているようです。

練馬の江古田が、本家である中野の江古田と離れているのはどうして?

離れていなかったんです。
現在、ふたつの江古田は「中野区江原町」をはさむかたちになっています。けれど、江原町は、1963年/昭和38年までは「中野区江古田2丁目」でした。それが、区画整理にともない町名を変更したのです。
なお、「江原」という町名は、1940年/昭和15年に設置された「江原公園」にちなんでつけられました。
いうまでもなく、「江古田」の「江」と、その付近の「字(あざ)」であった「原(はら)/江古田原」から「原」をとって命名されたものです。

いつから練馬の「江古田」はなくなったの?

1960年/昭和35年からです。
練馬区の成立後、中野の江古田との間で混乱が大きくなってきたので、町名を変更することになりました。
変更後の町名は「旭丘」ですが、これはすでにあった旭丘小学校にちなんでつけられました。

江古田駅はいつからあるの?

1915年/大正4年に、「武蔵野鉄道」という電鉄会社が営業を開始します。現在の西武池袋線の前身です。
その武蔵野鉄道が、1922年/大正11年に、江古田駅(停留場)を開業します。
その2年後に、江古田駅(停車場)となります。 詳述は避けますが、諸設備が整っている方が停車場です。
また、江古田停留場の開業日は、旧制武蔵高等学校の最初の入学式(4月17日)にあわせています。
停留場は武蔵野稲荷神社の真裏にありましたが、その後、2回の移転を経て、今あるのは4代目の駅舎(2010/平成22年に全面改築)です。

更新履歴・正誤表

以下に、「練馬と江古田の基礎知識」における更新履歴兼正誤表を掲出します。
単なる更新履歴というより、その後の調査で明らかになったことや閲覧者の方から寄せられた情報を、こちらで紹介していくつもりです。
なお、単純な語句・言いまわしの修正は掲載しません。また、ページデザイン上の変更も、大きなもの以外は掲載しません。

本コンテンツへの情報提供や、わたし/catの誤記などのご指摘は下記からお願いします。
topcatあっとmail.goo.ne.jp
なお、SPAMメール対策として、「@」マークを「かな書き」にしてあります。お手数ですが、当該個所を英数文字(半角)の「@」に置き換えてご使用ください。

お寄せいただいた情報を、本コンテンツ内で利用することがあります。あらかじめ、お含みおきください。
掲載の際は、出典を明示いたします。ただし、情報の選択や加筆・修正は、当方におまかせください。

更新履歴

更新日は 2021年09月20日(日)

「駅と鉄道史」を更新。最初に「根津嘉一郎=武蔵野鉄道大株主」説を書いた奴、出てこい!
ということで、「そんな証拠は見出せませんでした」と明示。

話は変わるが、この更新記録の欄がある理由はふたつ。
ひとつは(かつては)「江古田の語源以外のコンテンツの更新が山ほどあった」ために、語源関連の更新記録が埋もれてしまうことを防ぐため。
もうひとつは、冒頭のコメントにあるとおり、その後の調査結果を報告するためである。
ところが、今や語源以外のコンテンツは更新されなくなったため、同じネタをダブって書く羽目になっている。メンドクサイ。
おまけに、「その後の調査結果」は別のところに書いてしまっているので、今さらここに書く必要もない。やれやれである。


更新日は 2021年09月14日(火)

ということで、「駅と鉄道史」において、最初の江古田駅の場所が、「武蔵野稲荷神社の近く」ではなく「社殿の真裏」であることを画像で明示した。国土地理院の地図と測定ツールのおかげである。

google マップでも同じことはできるというか、写真上で距離測定もできるので、そちらの方が見栄えはよいのだが、利用規定がわかりにくいので手を出しにくい。まぁ、ふつうにフェアユースとして認められるとは思うのだが、安全策をとった次第。

以下余談。
今回、リンク切れのチェックをしていて思うのは、2000年前後の「個人サイト」(というより「ホムペ」)って百花繚乱だったなぁと。
だが、何年もやっていれば生活は変わる。時間もなくなる。そうして、サイトは放置され、その間、web サービスも終了しサイト自体が消滅する。
諸行無常である。


更新日は 2021年09月012日(日)

ということで、「駅と鉄道史」の項をかなり加筆+やや修正。けっこう、手間ヒマをかけてしまった。
初代の江古田駅の位置を古い航空写真と現在の地図と重ねてみたのは、われながらナイス。
また、練馬区所蔵の写真を使用したわけだが、担当者の迅速な対応に心から感謝する。コロナで大変なのに、こんなノンキなリクエストで申し訳のないことです。

ここでグチを少し。
弊サイトは、かなり初期の段階から画像やら調査成果を持っていかれている。まぁ、しょうがないと諦めてはいた。
だが、今回の久々の更新にあたって、いろいろと他サイトをみていたところ、今や弊サイトの中心ネタとなった「江古田/江古田駅の歴史」関連コンテンツから、ずいぶんしれっとパクられているのを発見した。まぁ、証拠はないのだが、「そのネタをその切り口で解釈するヤツなんて、他のどこにいるんだよ」みたいな。

この20年、サイトの更新こそさぼりがちだが、地道に調べ物をしてきた。そうして、小さな世界の小さな話題ではあるが、それなりの成果を挙げたと自負している。
それを褒めてくれという気はない。単純に、引用のルールを守ってほしいと思うだけである。

さて、仕事をサボりすぎた。もう、しばらく大きな更新はできないかな。


更新日は 2021年09月07日(火)

「駅と鉄道史」の項を加筆・修正。
2012年に「そういや、官報ってどうだったっけ」ということで調べたもの。
ひどい。
「ゑこだ」である。
まぁ、おそらくは誤記と思われる。ただ、これは誤記としても、実は「変体仮名」の「え」を使った江古田はちょこちょこ見つかるのである。

変体仮名のえ.jpg
CC 表示-継承 2.1 IPA NINJAL

このネタも、2012年9月に別のところにある日記的なもので発表したのだが、こちらに反映させる余裕がなくそのままにしていたもの。
とはいえ、やはり重要なポイントなので、遅まきながら反映させることとした。
時間がないとかいいながら、もう少しだけ更新をする予定である。


更新日は 2021年09月05日(日)

「江古田の語源と由来」ページにおける「横浜の江古田」の項を加筆・修正。
内務省本と浄書本の差が大きいのをガマンできず、浄書本からの画像を挿入し、文章も改めた。
ポイントは2点。
01 横浜市緑区の江古田
  都筑郡西八朔村の小名「ヱゴ田」に修正。(内務省本では「えこ田))
02 横浜市青葉区の荏子田
  都筑郡石川村の小名『枝子田』の読みを「ヱコダ」に修正。(内務省本では漢字表記のみ)
なお、歴史的仮名遣いの話(「え・ゑ・エ・ヱ」と漢字の関係)を踏まえての考察は、素人の手にあまるのでスルー。
それにしても、文中でも記したが、内務省本のいい加減さには困ったものである。


更新日は 2021年09月02日(木)

更新ポイントは2点。

01 中野の江古田の読みが、江戸期では「えこだ」であったこと。
本コンテンツにおいて、江古田の読みについては、「新編武蔵風土記稿」を基軸としている。
ただし、江古田側の読みについては浄書本(将軍献上本)にそったが、中野側の読みについては、内務省本(活字版)を底本とする「大日本地誌体系」版に依っている。
これは、サイト作成時点で浄書本を確認できなかったためである。 1)

折に触れて、国会図書館や公文書館のサイトなどをチェックしていたが、浄書本のデジタル化はなされていなかった。
それが2019年に久々のチェックをおこなったところ、デジタル化・アーカイブ公開がなされていることを発見した。(公文書館に問い合わせたところ、2017年公開の由)

練馬側の江古田の読みについては浄書本のキャプチャ画像を使用しているのに、中野側については活字本のキャプチャであることは、長く心に引っかかっていた。
それが、この度(といっても2年前なのだが)、浄書本のキャプチャ画像になったことはとてもうれしいできごとであった。

江古田の読み方については、さまざまな事例を収集している。 2)
しかし、今回はとりあえず「中野の江古田も『えこだ』だった」ことを明示するにとどめることとする。

02 初代の江古田駅は停留場であるが、仮営業でも仮駅でもないこと。
本件は2010年の更新で明確化したことだが、当該コンテンツ内に修正し忘れがあったことに対応した。

当該コンテンツ作成時、鉄道関連についてまったくの無知であったため、ネット上の情報を中心に情報収集をおこなった。その中に、西武鉄道についてとても詳しく記したサイトがあり、そこでの記載内容に頼った次第。 3)
つまり、そこに1922/大正11年に江古田駅が「仮営業」を開始し、翌年に「本営業」となったと記されていたのである。(正しくは翌々年である)

鉄道の世界において、停留場は仮の駅であり、そこでの営業は仮営業であるとする規則あるいは慣習があるのだろうか。
だが、もしそのようなものがあったとしても、弊サイトではできるだけ一般的な用語法にもとづいた記述をおこないたい。

何より、鉄道大臣に対して「設置届」を提出しており、実際にそのとおりに営業されている以上、それは「普通に開業している」といってよいはずである。
なお、同年4月8日付の「届出書」には、「4月17日から使用開始したい」と記されている。
そうして、その日こそ、日本初の7年制高等学校である武蔵高等学校の第1回入学式の日付なのである。 4)

官報に「11月1日設置・開業」とあるものの、実際には4月から運用されている。では、官報での開業日以前の営業について、どのようにとらえたらよいのだろうか。
それを「仮営業」ということもできるだろうが、法律上認可されていないという点にかんがみれば「闇営業」である。ということで、本コンテンツでは「仮営業」「仮駅」の定義が明確でない以上、これらの語は用いずにいく所存である。

なお、初代の江古田駅(停留場)が簡素なものであったことはいくつかの資料から明らかであり、何より武蔵野鉄道の文書内に「仮設もの」と記されている。(ここでの「仮設」は「本格的な建造物ではない」というぐらいの意味であろう)
繰り返しになるが、それでも駅は駅であり、営業は営業であるとみなして不都合はないと思われる。

1)
練馬の江古田について、浄書本の内容を掲載できたのは、郷土史研究会が資料を出していたため。
なお、浄書本の影印本がある出版社から刊行されていたのだが、他社からも出版されている内務省版(活字本)の別校訂本と思いこんでおり、未チェックだった。このミスがなければ、約20年間にわたる誤解釈を避けられたわけで、痛恨の極みである。
2)
今回の更新内容も含め、けっこうな分量の情報が mixi の日記に掲載してある。
3)
当該サイトはリンクデッドとなっている。
4)
届出書などについては「駅と鉄道史」コンテンツを参照のこと。
また、旧制武蔵高等学校の開校日(入学式)については、リンク先の武蔵学園史年表内の、「学園関連事項」欄を参照のこと。


更新日は 2014年05月11日(日)

「練馬の江古田」を更新
大正末に測地された江古田駅周辺の地図を掲出した。
これまで、明治期から昭和30年代までの地図を掲出することで、駅周辺の変化を視覚的に確認できるようにしていた。
ただ、使用した資料の関係から、大正期の状況が未掲出となっていた。その後、対応する時期の地図を入手したのだが、ゴタゴタとした日々を過ごすうち、うっちゃられたままになっていた。
こうしてつなげてみると、大正末から昭和初年にかけての人口流入がどれほどのものだったのかがわかると思う。


更新日は 2010年03月18日(木)

「江古田駅のなりたち」を更新
武蔵野鉄道側からの設置申請と鉄道省側の文書にもとづき、江古田駅がどのような経緯で作られていったのかを明らかにした。

各文書の写真もたくさんあるのだが、とりあえず主要なものだけを掲出した。
それにしても、「えごだ」駅で申請がなされていたとは思わなかった。
明らかになったことは少ないが、手間暇だけでなく費用もかかった調査なのである。


更新日は 2010年01月02日(土)

「江古田の語源と由来」を更新
すでに指摘ずみであるが、「エゴノキ由来」説に対する留保の必要性を、別の角度から検討した。

本コンテンツにおいて手をつけたい部分があるのだが、多忙のため動きがとれない。
サイト全体の改修も完璧ではないこともあって、どちらを優先すべきか悩む。


更新日は 2006年04月02日(日)

「江古田のなりたち 01」を更新
「江古田新田と江古田村の位置関係」という大項目(■印で始まる部分)を設置。
従来からあった「江古田新田の位置:江戸期の練馬地区の郡分け図」に、「江古田の成り立ち02」内の項目であった「大正時代の地図」を移動させて項目化した。
これにより、「ふたつの江古田」の成立の流れと、両者の地理的関係の把握がしやすくなったと思われる。

「江古田のなりたち 02」を更新
上述のように、「大正時代の地図」の項目を削除・移動。
そのかわりに、「江古田駅周辺の発展」という大項目を設置。 明治から昭和にかけての、江古田駅周辺の地図4葉を掲出し、視覚的な把握ができるようにした。
従来からの「行政区画の変遷」の大項目と組みあわせることにより、総合的な理解が促進されるのではないかと期待する。

「江古田の文献」を更新
上記の更新にともない、参考文献を付加。

今回は、ページ間での内容の入れ替えをともなうちょっと大きな更新となった。
また、地図のデータ化など面倒な作業も加わった。
この地図も、入手したのはずいぶん前だったのだが、どのページに掲出しようかと考えているうちに、メンドクサクなり放置していたもの。 ← こればっかりですね。


更新日は 2006年03月31日(金)

「江古田の読みと語源」を更新
中野区にある「えこたおおはし」の話題を追加。(写真つき)
横浜市の「江古田・荏子田」に関し、あらたな項目を作成。

「江古田の文献」を更新
上記の更新にともない、参考文献を付加。

「えこたおおはし」は、2〜3年前に写真を撮影していたもの。あまりに面白いので別にページを設けようかなどと考えているうちに、メンドクサクなり放置していたもの。
「横浜のえこだ」についても、1年以上前に元となる原稿は作成し図版も用意していた。だが、できるなら活版本ではなく原本のスキャン画像を掲載したいと思っているうちに、メンドクサクなり放置していたもの。
結局、別ページを作らなかったため、「江古田の読みと語源」のページがかなり肥大化することとなった。
しかし、もともと「読み」の問題を調べたくて始めたコンテンツということもあり、1ページ内で「読みの謎」を俯瞰できる方がよいように思う。

ところで、ここ数日、mixiの「江古田関係ご一行様」コミュニティで江古田の「読み」の話題がプチブームになっている。
みると、相変わらず「エゴノキ→ えごた」説が散見される。しゃしゃりでるのは好きではないので静観するつもりだが、話題に参加するぐらいなら、その前にせめて「江古田 語源」でサーチしてくれないかなぁとも思う。


更新日は 2006年03月27日(月)

練馬と江古田の基礎知識トップページを更新。
「ダイジェスト」部分の文言を一部修正。
江古田の始まりを「鎌倉時代から」としていたものを「室町時代には」に変更。

注意深い読者は、「ダイジェスト」の当該部分が「江古田の歴史01」における内容/記述を裏づけとしていないことに気づいていらっしゃったと思う。
すなわち、「文献上の初出」は室町期と明記しているにもかかわらず、「ダイジェスト」では鎌倉期に江古田が存在したような記述になっているからである。
これは、いくつかの文献で、「江古田の獅子舞」が鎌倉期に始まるという説があること・江古田の旧家には鎌倉期に住みついたものがあるという記述があることに起因する。
いうまでもなく、獅子舞が鎌倉期に始まっていたとしても、それが「『江古田の』獅子舞」であったかどうかはわからない。同様に、その旧家の祖先が住み始めた時点で「江古田」であったかどうかもわからない。
「江古田の歴史01」内で記しているように、文献に名前が出る以前から江古田という地名は存在していただろう。だが、鎌倉期に成立した文献内に江古田の文字が発見されない以上、「江古田の始まり」を鎌倉時代とすることは避けるべきである。
せっかく本編で慎重な記述をおこなっていながら、ダイジェストで筆が滑ってしまい、かつ今までそのことに気がつかなかった。
あらためて、訂正しお詫びする次第である。


更新日は 2006年03月18日(土)

下記の3ページを更新。

練馬と江古田の基礎知識
トップページ 「ダイジェスト」部分の文言を若干修正。

江古田の語源と読み方
江古田の語源と読み方における「えごの木」説に依拠することの危険性を明示。
結語部分の「えこだ・えごた」問題を論ずる際の留意点について述べた文章を修正。
従前のものは、それまで記してきた内容/調査結果と微妙に齟齬を生じていた。
すなわち、資料面で裏づけのある練馬側の「江古田=えこだ」に対し、今日の中野側の住人の読み/発音の実態にのみ即して「江古田=えごた」という読みを根拠あるものとしていた。
そこで、「江古田本村の住人が『えごた』と読んできたこと」は「尊重されるべき」という表現に変更した。

江古田のなりたち 02
「大正末期の『江古田新田』付近」の項で、「東福寺」「哲学堂」の位置についての説明を修正。
従前の文章では、両者がともに「北江古田公園の南端」にあるようにも読めてしまっていた。

久々の更新である。
「江古田の語源と読み方」の結語部分の修正は、かなり前から気になっていたもの。今回の修正も万全ではないが、とりあえずひと安心である。
また、「東福寺・哲学堂」の部分は、ネットをふらふらしていた際に、ある方のブログでの指摘を受けてのものである。
その方も、「読み直したら、哲学堂が北江古田公園に隣接しているとは書いていなかった。」とフォローしてくださっている。
しかし、パッと見でも誤解が生じない文章がよい文章なのである。
ということで、つつしんで修正をおこなった次第。「いわちゃん」様、ご指摘ありがとうございました。


更新日は 2003年04月06日(日)

下記の2ページを更新。

江古田のなりたち:02
1953年/昭和28年の東京都路線図(東京都交通局作成)で、江古田駅が「えごだ」と表記されていることを付記。
また、江古田駅周辺の町名変更に関し、別資料にもとづき、「南町1・2丁目」部分のデータを修正。

江古田駅のなりたち
これまで、大ざっぱだった駅舎の移転および駅舎・周辺施設の設置年月日を明記。

東京都路線図は、たまたま見にいった江戸東京博物館の3月企画展で発見したもの。どなたか、お持ちの方、スキャンさせてください。 m(_ _)m
駅関係は、もう少し調べてみたい気もするのだが、鉄道マニアではないこともあって、効率のよい情報検索ができない。交通博物館って、資料室があったかしらん?


更新日は 2002年9月26日(木)

「江古田の語源と読み方」のページを更新。
あまり意味はないのだが、「新編武蔵風土記稿」において「中野の江古田」に「えこた」とルビが振られていることが確認できるスキャン画像をアップした。
9月15日の記述にもあるように、この部分の影印本は入手できていない。 今回アップしたのは、1884/明治17年に、内務省地理局が原典を活字化した、いわゆる「内閣文庫本」の復刻版からの画像である。(これはこれで影印本なんですが...。)
ちなみに、画像中の本文2行目の冒頭「ノ起リヲ詳ニセス」という部分は、その前行の「村名」という語に続くものである。
本コンテンツにおいて、「江戸時代の時点で、『江古田』という地名の語源・由来はわかっていない」とした論拠である。


更新日は2002年9月21日(土)

「ダイジェスト版」中の「江原町」に関する記述が、誤解を招きやすい表現になっていたのを訂正。
本編の「江原町」のページは問題なし。 「江原町ができる前に『江原公園』が存在していた」ということを明記した。


更新日は 2002年9月15日(日)

「江古田の語源と読み方」のページを更新。
「新編武蔵国風土記稿」の影印本からのスキャン画像を付加。
練馬側の江古田に「エコダ」のルビがふってあるページ これにともない、当該ページの記述を修正。

少し長くなるが、今回の更新の趣旨と経緯に触れておく。
当該画像は、本コンテンツ執筆時に作成していたが、あえて使用を差し控えていた。その理由は単純なものである。すなわち...
一次資料のスキャン画像はインパクトがあるが、あるひとつの「読み」だけを掲出するのはバランスが悪い
...ということである。
「新編武蔵国風土記稿」という有用な史料に「ふたつの読み(エコタ・エコダ)」が記されているとき、それぞれの該当部分をスキャンしたいという気持ち/ページデザイン上の判断をご理解いただければ幸いである。

わたし/catは、江古田の発音問題について、「どれが正しいか」という視点で論じるものではないと考えている。
また、「どちら」というような「簡単な問題ではありませんよ」というスタンスで臨んできた。
さらに、当該画像の有無で、本コンテンツ/ページの趣旨・内容が左右されないよう配慮したつもりである。
しかし、もうひとつの「読み」、すなわち「多摩郡/中野側」の「江古田/エコタ村」が掲載されている影印本は発見できなかった。(といって、原本を閲覧・撮影させてもらうほどの話でもないし、そもそも許可されるものでもないだろう。)
そんなこんなで放置していたのだが、先日、「まちBBS」の江古田スレッドを読んでいたところ、「えこだ・えごた」問題についてやりとりされているのを発見した。
で、まぁ、それに触発されて久々の更新となった次第である。
もちろん、「とりあえず一方の画像だけ載せておいて、もう一方は『見つけたら掲載する』って書けばすむ話じゃん」というご指摘もあろうが、そのときのわたし/catは、とにかく「いっぺんに掲出したかった」のだということでご了承願いたい。

付記
こんなところでなんですが、「まちBBS」でのやりとりの中で、本サイトをご紹介くださった方、まことにありがとうございます。こんなサイトでも読んでくださる方がいるのを知ると励みになります。
また、どれくらいいらっしゃったのかはわかりませんが、そこでの紹介リンクを辿って読みに来てくださった方々にもお礼申しあげます。


更新日は 2002年3月12日(火)

構成を変更した。
「基礎知識」トップページに、Q&A形式の「ダイジェスト版」を設置。
同時に、「更新履歴+訂正」のコンテンツを、トップページに移動。
「参考・引用文献」を独立させ、これまで「更新履歴+訂正」を置いていたページに移動。
「前書き」を「後書き」に変更し、「参考・引用文献」と同じページに移動。

予想外に、全体のコンテンツの量が多くなってしまった。そのために、興味と時間のある閲覧者でないと、全体像が把握しにくいきらいがあった。
せっかくいくつかの発見もあったことなので、ポイントだけでも読んでいただこうという次第である。


更新日は 2002年3月5日(火)

さっそくの修正とお詫び。
「基礎知識」トップページの「目次」においてリンクミスがあった。
「江古田の語源」ページでの人物紹介/「えごの木」説を唱えた人物について 正しい人名は「柴田常恵(しばた じょうえ)」である。
つまり、「堀野1973」での表記は誤記あるいは誤植である。 同氏は考古学の世界では著名な方のようである。また、地方史にも詳しい由。 「紫田・紫野」を調べ「柴野」でも調べておいて、なぜか「柴田」で調べそこなっていた。(大汗)
ということで、当該部分を訂正し、文章を書き換えた。


更新日は 2002年3月3・4日(日・月)

江古田関連サイトととしては「こういうのも必要だろう」という、軽い考えから「江古田史」を書き始める。
当初は1ページに収まっていたものが、知らぬうちに肥大化して、このていたらくである。なんとか掲載にこぎつけられただけでもヨシとすべきだろう。
サブメニューが、環境によって見苦しくなっていることに気づく。2階だてにして逃げることにする。

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