江古田 大学と美容院の街


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練馬の歴史と練馬区のなりたち

ここでは、練馬の歴史を大ざっぱに眺めてみることにします。ただし、「練馬区」成立後についてはあまり触れません。
これは、本サイト/ページの趣旨からははずれるためです。あらかじめ、ご了承ください。

さて、おおよそ2万年前から、この地域には人が居住していたようです。とはいえ、考古学的な話をしてもしょうがありませんので、奈良時代から始めることにしましょう。

600〜700年代(奈良・平安時代/律令期)

現在の東京のほとんどの部分は「武蔵国」であった。
国府/国衙(こくが)は、現在の府中市。大国魂神社あたりとされている。
ただし、この時代、現在の練馬区周辺には、ほとんど人は居住していなかったようである。
当初、国府は現在の埼玉県大宮市付近にあったが、政治上の問題から移転した。

700年代半ばの文献において、「練馬」の語源のひとつとされている、東山道(とうせん/ざんどう)「乗瀦(のりぬま/のりま)」駅の名前をみることができる。
だが、「乗瀦駅」は、900年代はじめには姿を消している。これは、771年/宝亀2年に武蔵国が東山道から東海道に転属され、公定路からはずれたためと考えられている。

1200年代はじめ(鎌倉時代)

現在の北区王子付近を根拠地とし、荒川流域に勢力のあった豊島(としま)氏が、石神井(しゃくじい)川に沿って領地を広げ、石神井郷を形成する。
やがて練馬城や石神井城などを築き、武蔵国豊島郡一帯を支配するようになる。(現在の豊島園遊園地は、練馬城址である。)

1362年/貞治元年:「武蔵国願文」
この文献中に「ねりま(ママ)郷」「石神井郷」の名をみることができる。おそらく、これが文献上で確認される「練馬」の最古の例であろう。

豊島郡の郡衙(ぐんが)/政庁は、現在の北区西ヶ原にあった。また、北区に「豊島」という町があるのは、これに由来する。

なお、豊島氏がいたから「豊島郡」なのではない。古代、大きな勢力を持っていた秩父氏の流れを汲んだものが、支配下の地名にならって名をつけたものである。
地名としての「豊島」は、646年/大化2年、中央政府から東国に派遣された国司の監査報告の中にみることができる。(史料名については未調査)

これに対し、「豊島氏」が文献上で確認されるのは、「保元物語」(1240年以前に成立)の中での「豊島四郎」が初出と思われる。
同書は、保元の乱(1156年/保元元年)を描いた軍記物である。

ちなみに、練馬の江古田に縁の深い板橋と中野の初出については、以下のとおり。

1481年/文明13年以降(室町〜戦国時代)

太田道灌が豊島氏の居城である平塚城(現・北区中里)を攻め、戦いに敗れた豊島氏は滅亡する。
この後、武蔵国は太田氏→北条氏(後北条氏)が支配することになる。

1590年/天正18年
徳川家康の関東支配・江戸入城

1603年/慶長8年以降(江戸時代)

練馬地区の各村は、3村をのぞいて、幕府の直轄地となる。

幕府の直轄地
上練馬・下練馬・上石神井・下石神井・田中・土支田(どしだ)・谷原(やはら)・関・小榑(こくれ/こぐれ)

旗本などの領地
中新井・中村・橋戸

生活レベルは高くないものの、練馬地区は均質化した平和な農村として幕末までいたる。
ダイコン・ゴボウ・イモなどの蔬菜(そさい)を江戸市中に供給する一大近郊農村として発展。
蔬菜が中心となったのは地質上の問題で、練馬は畑作農だけでやってきた地域といえる。

1868年/明治元年以降(明治〜大正時代)

1868年/明治元年
明治維新からの数年間は、行政区画はめまぐるしく変わる。
ちなみに、練馬地区は「1869年/明治2年1月:小菅県 → 同年2月:品川県」を経て、1871年/明治4年12月に東京府に編入となる。

1871年/明治4年
「大区・小区制」により、東京府の行政区画はかたちを整え始める。
練馬地区は、第3大区22小区××村に施行区分される。

1873年/明治6年
東京府第8大区7小区××村に再区分される。
現在の江古田駅周辺については、「江古田のなりたち」ページを参照のこと。

1878年/明治11年
「郡区町村編成法」(東京府を15区6郡に区画)により、練馬地区の大部分が東京府北豊島郡に編入。
中野地区は東多摩郡・板橋地区は北豊島郡に編入。

1889年/明治22年
「市制・町村制」によって、村の再編が実施される。
上に記したように、これにともない、新座郡下の「小榑・橋戸」の両村が練馬地区に編入される。

1923年/大正13年以降
前年の関東大震災後、都心部から練馬地区への人口流入が始まる。

大東京市への移行

東京35区の地図
   東京 旧15区・新20区対照表(東京都 1957)

1932年/昭和7年〜1947年/昭和22年までは、上図の「板橋区・練馬区」をあわせた部分(18番)が「旧・板橋区」である。

1926年/昭和元年以降:練馬区独立まで

1932年/昭和7年
東京市が35区制となり、東京市板橋区および中野区が誕生。練馬地区は板橋区に編入される。

面積からいけば、板橋は2区以上にわかれても当然だったが、人口が少なかったためひとつの区にまとめられた。(旧・東京府15区と同じ面積であったが、人口は他のひとつの区より少なかった。)

この措置に対して、練馬地区住民の不満は高まり、「練馬独立案」が叫ばれるようになる。

広大な板橋区において、練馬地区はその60%に相当する部分を占めている。
練馬地区とは、「練馬町・上練馬村・中新井村・石神井村・大泉村、そして江古田・小竹地区(上板橋村の一部)」である。

だが、工業化が進み始めていた板橋側に対して、練馬地区は農村としての性格を維持していた。(練馬区 1997)
そうした、練馬地区と板橋地区の性格の違いが顕著となり、同一区では行政面に支障がある。
また、日常生活の場面でも支障が生じる。
たとえば、板橋区東端の板橋町に区役所が設置されたため、練馬地区住人にとっては、申請・登録などが1日仕事になる。

これに対処するため、練馬派出所・石神井派出所が設けられた。
しかし、重要な登録・申請は区役所にいかねばならなかった。

これらの点などから、練馬地区住民の不満は根強く、1944年/昭和19年2月には、「練馬区設置期成会」なるものが結成されている。
ただし、この独立運動は、当時の内務省による「市町村分離統合の1年停止」という緊急処置令によって断念させられた。
そのかわりに、「練馬派出所 → 支所」「石神井派出所 → 出張所」という、役場の格上げが行われた。(板橋区 1999)

1947年(昭和22年)8月1日
板橋区から分離・独立。
当初は、開進第3小学校の講堂が区役所であった。(練馬区桜台2-18-1)
現在地(練馬区豊玉北6-12-1)に移転したのは1949年/昭和24年である。

ちなみに、1947年3月、東京都は35区制を廃止し、22区制で再スタートしています。
しかし、練馬の人々の運動により、8月に「練馬区」として独立することになりました。(1999年版板橋区史によると、東京都は、22区制制定の過程で、23区制をとることを予定していたとあります。)
練馬区を「23区でもっとも新しい区」と呼ぶのは、そういう経緯からです。

練馬の地名の由来

定説はありません。代表的な説は下記のようなものです。

わたし/cat が小学生の頃は、「馬の訓練場があったから」という説が、社会科の副読本に載っていたような気がします。

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