江古田 大学と美容院の街


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江古田の語源と読み方

「えこだ」と「えごた」。どっちが正しいの?
昔から、多くの人が首をひねった話題です。簡単にいうと、こんな感じです。

「えご」の木って、どんな木?

江古田の語源については定説はない。

文献などではいくつかの説が紹介されているが、よく耳にするのは「えごの木」が群生していた地域だったからという説である。
もっとも、「耳にする」わりには、「えごの木」がどんなものかを知る人は多くないと思われる。
数個の白い花が下を向いて咲くところが特徴である。また、その実から油をとり、食用油や石鹸が作れるようである。(重井薬用植物園 2002)

その他の説としては、以下のようなものがある。

江古田の仲間(?)たち

似たような地名

地名辞典をみると、以下のようなものを見つけることができる。(山中 1968)
「江古田」の謎をとくカギがあるのかもしれない。

横浜の「えこだ」

横浜市には「江古田」および「荏子田」がある。それぞれ「えこだ」と読む。
本ページ下段にあらためて項を設けたのでご参照願いたい。

「エゴノキ」説再考

エゴノキ説とは

前出のとおり、「江古田」の語源については、「エゴノキ」説を耳にすることが多い。また、それに由来することを疑う人は少ないようである。
しかし、この説がどこから生じたものであるのか、確認しておく必要があろう。

堀野は、「エゴノキ」説が、柴田常恵(しばた じょうえ)という考古学者によるものだとしている。(堀野 1973)
「江古田は遠い昔、田のふちにエゴノ木が生えており、その下に田がったので(ママ)『エゴタ(江古田)』と名づけたのではないか、と考えられる。」

この柴田の説は出典不明である。堀野の文章では、「(柴田が)『...、と考えられる。』と述べておられた。」となっている。
「述べておられた」という表現は微妙であるが、柴田の「えごの木」説自体、公刊されたものではなく、私的な研究会などで仮説・ヒントを語ったにすぎないという可能性も考えられる。

エゴノキの表記

「エゴノキ語源説」は納得しやすいものではある。
けれど、「エゴノキ」そのものの語源および表記と照らしあわせるとき、問題があるといわざるをえない。

「エゴノキ」の名は、その実の味が「えぐい/刳い」ことに由来するとされている。(漢字表記については「草かんむり+斂」などもある)
「えぐい・えごい」は、「アクが強くノドを刺激する味があること・いがらっぽい」という意味である。

そして、この「えぐい」の、旧かなづかいでの表記は「ゑぐい」である。

たとえば、「春は飛ぶ」と題された竹久夢二の文章において、「ゑご」「ゑごの木」という文字列をみることができる。(竹久 1940)

武藏野には野茨がまことに少いその代り、このあたりでゑごとよんでゐる、ちさの木はいたるところに見られる。
(略)
やがてゑごの小徑もなくなるであらうと思はれる。私はゑごの木を惜む心から、見あたり次第にゑごの木を買つてきて庭へ植つけた。實生から出來たゑごの苗木も百本ほどになつた。希望の方にはおわけしたいと思つてゐることをこの機會に書きつけておこう。

これに対し、「江古田」の「江」の字のかな表記は旧かなづかいにおいても「え」である。

よって、「エゴノキ」を語源とするならば、「ゑごた」と表記せねばならないはずである。
しかしながら、各種の文献などにおいて、「えこだ・えごた・えごだ・えこた」のいずれかの表記をみることはあっても、「ゑごた」と表記されたものは発見されていない。

この点から、少なくとも「江古田」という文字列/漢字表記から地名の由来を論じようとするとき、「エゴノキ」説は留保すべきであろう。

「新編武蔵風土(ふど)記稿」

関東圏の歴史/地方史研究において、「新編武蔵風土記稿」はもっとも重要な文献のひとつである。
学術論文だけでなく一般向け書籍や webpage においても、ここからの引用を多く目にすることができる。

同書は、林述斎が建議し、晶平坂学問所の地理局で編纂された武蔵国の地誌である。
1810年/文化7年に執筆が開始され、1828年/文政11年に完成。さらに、1830年/天保元年、幕府に献上された。(新編武蔵風土記稿について 2002)

近代以降の地方史でも、同書の記述を引用したり土台にしたものが少なくない。
これは、そのまま同書の内容の信頼性をしめすものと考えてよいだろう。

では、そこでは「江古田」はどのように記されているのだろうか。

江古田村の記述は、「巻之百廿四 多摩郡之三十六 野方領」の冒頭にある。そして、以下の一文から始まっている。
「江古田村 江古田村は東の方豊島郡の界にあり、(略)村名の起りを詳かにせす」(蘆田 1981)

すなわち、この江戸末期の一大プロジェクトにおいて、「村名の由来ははっきりしていない」と明示されているのである。

わからないものはわからない

「新編武蔵風土記稿」での記述からも、江古田の語源に触れている後世の文献の多くが、定説のないことを指摘しているのは正当なスタンスであるといえる。
今回、目を通した昭和初年までの郷土史文献の中に、「えごの木」説を見ることはできなかった。(東京府豊多摩郡役所 1916、東京府北豊島郡役所 1918 、佐々木 1927、東京市 1932)

仮に「えごの木」説が上述の柴田のオリジナルだとすると、彼の活躍年代からいって、1912年/大正元年以降の、比較的新しいものであるといってよい。

「えごの木」説の妥当性・信頼性については、ここでは措く。
だが、上記のような状況からすれば、江古田の語源を「えごの木」説に依拠することは避けた方がよいと判断する。

なお、考古学/地層調査からは、中野の江古田地区における「えごの木」の群生は確認されていない。(中野区史料館 1970)
また、えごの木が1本しか生えていなくても、それがランドマークであれば地名の由来となることはいうまでもない。

えこだ・えごた・えごだ・えこた

現在、「江古田」の発音は地区で異なっている。

駅名との関連

「えこだ」という発音は、江古田駅が開業した際「えこだ」と表記されたことに由来すると、一般には理解されている。
しかし、一私企業が、文字表記ではなく、「発音」を決める/作るということは考えにくい。

むしろ、「えこだ」という発音が、(少なくとも練馬地区では)一般化していたことを受けての駅名決定と解すべきだろう。(次項の「『新編武蔵風土記稿』での表記」を参照のこと)

「新編武蔵風土記稿」での表記

上述のように、同書は信頼性の高い史料である。また、村や小名にルビがふられており、地名の発音を知る上でも有用な史料である。
桑山は、「地名の呼び名には(略)決定的な呼び方があるわけではない」とした上で、「本書の振り仮名が、(略)ひとつの示唆を与えてくれるのはありがたい」と記している。(桑山 1989b)

そこで、同書をあらためて見てみると、中野側の江古田と練馬側の江古田とで異なった表記がされているのを確認できる。

中野側 = えこた
「巻之百廿四 多摩郡之三十六 野方領」の冒頭
タイトルの「江古田村」の部分に「エコタ」とルビがふってある。

練馬側 = えこだ
「巻之十二 豊島郡之四 上板橋村」の文中(なお「カミイタバシ」のルビあり)

下に掲出したのは、影印本の該当ページ(をコピーしたもの)のスキャン画像である。
説明のある「毛呂(現・茂呂)・大谷口」に続き、その他大勢のような扱いで列記されている中に、「江古田/エコダ」を見ることができる。(桑山:27 1989b)

これらのことから、少なくとも江戸末期までには、多摩郡と豊島郡のふたつの江古田の間で発音が「使い分け」られていたことが推測される。

fig.1 上板橋村の記述・ 残りの小名は、次ページに記載されている(桑山:27 1989b)
新編武蔵国風土記稿での江古田の文字列

fig.2 江古田の文字列の拡大画像・「ダ」と濁点のあることがわかる
江古田の文字列の拡大画像

fig.3 1884/明治17年発行に発行された活版本からの画像。
「エコタ」になっている。(内務省地理局 1884)
新編武蔵国風土記稿活字版の画像

地名事典での表記

現在、一般に見ることのできる地名事典の多くは「えごた」をとっている。
ただし、大きな事典では「『えこた』ともいう」と併記されている。(竹内 1978)

えごだとえこた

さらに、中野地区・練馬地区を問わず、「えごだ」と発音していたという事例のあることにも留意しておきたい。

郷土史家の桑島と須藤は、それぞれ興味深い報告をおこなっている。
「現在の会話ではエゴタ(略)土地の古い人に言わせるとエゴダと両方濁る」( 桑島 1989)
昔からふたつの発音があったが、「(方言的であり)濁音が重なるのは、うまくないので『えごた』を用いることになった」(須藤 1981)

また、「江古田のなりたち:02」ページで引用した、大正後期の地図での表記も参照されたい。

加うるに、公共施設において「えこた」が用いられている事例もある。
中野区にある関東バス丸山営業所・江古田公園のすぐそばに橋がある。
それには「えこた おおはし/江古田大橋」という銘板がつけられている。
ご存じの方も多いだろうが、江古田公園には「江古田原・沼袋合戦」の記念碑が設置されてるところである。

fig.4 江古田大橋の画像・右側の写真中の画面左側の道は青梅街道。丸山営業所に向かって撮影。
江古田大橋の画像

いずれにしても、読み方/発音の問題は手強いというほかない。
たとえば、現在の大泉地区の前身である「小榑村」も、郷土史研究の文献においてさえ「こくれ/こぐれ」と一定していない。

加えて、文献上では、もともとの発音はわからないことも確認しておきたい。
少なくとも、近世以前の日本語では「濁音」は表記しないことも多いからである。

「新江古田駅」の命名

ちなみに、都営地下鉄大江戸線(12号線)「新江古田駅」は、「しん-えごた」と表記されている。
計画段階では「仮称:豊玉駅」だったが、「隣接する著名な地名にならい」、かつ「同名の既存駅があるので、『新』をつける」ことになった由。(東京都 1997)
しかし、この理由・基準は、やや一貫性・明確さを欠くように思われる。(駅名決定に際しての詳細な経緯は不明)
たとえば、練馬の江古田と中野区江古田の、どちらを「著名」と判断したのだろうか。
おそらくは、新江古田駅の所在地が「中野区江原町」であるために、中野区側の発音をとったものと推測される。

そもそも、この地に名を与えた最初の人々が、それをどう発音し表記していたのかはわかりません。
さらに、ことばというものの性質を考えれば、当初のものから変化する/したと考えることも妥当です。

また、イントネーションの問題も忘れてはならないでしょう。(「え_こ_だ_」と平板に発音するのは本来的なものだろうか?)

やや唐突なまとめ

とりあえず、これまでの調査からいえることは、以下の数点にしぼられるかと思われます。

語源について

読み方について

ネット上での「えこだ/えごた」談義を読む限りでは、「えごの木」説に依拠した「江古田=えごた」説が繰り返されることが多いように思います。
けれど、繰り返しになりますが、それには留保をつけておいた方がよいようです。
ただ、江古田の本家である中野地区において、「えごた」と呼ばれてきた/きているという事実は重視しなければなりません。

逆に、「新編武蔵国風土記稿」の頃から一貫しているからといって、「えこだ」が本来的/正しい読み方だということでもありません。
とはいえ、「えこだ」もそれだけの歴史を持ち、住人に定着しています。
そのことを無視して、「えこだ」を誤用(が定着したもの)のように扱うことは避けるべきと思います。

本稿で述べたこと以上の厳密な考証は、プロの歴史家に任せることとします。
現代の一般人たるわたしたちは、そうした事実を踏まえた上で、地域に根づいている読み方/発音を用いればよいのではないでしょうか。
ということで、「練馬サイド=えこだ・中野サイド=えごた」という使い分けでよいと考えます。(行政面でもそうなっています)

そもそも、誇り高き京都人からみれば、わたしたちはイナカモンにすぎません。
ならば、いっそのこと、みんなそろって「エゴダ」と訛って発音してみてはどうでしょう。いや、むしろ「yegoda」かな?

横浜市の「江古田」と「荏子田」について

現在、横浜市において、ふたつの「えこだ」を確認することができます。
ひとつは「青葉区の荏子田」、もうひとつは「緑区の江古田」です。

練馬と中野の江古田の仲間として紹介するとともに、地名研究の難しさをあらためて実感していただきたく、ここに掲出する次第です。

横浜の「えこだ」の位置

まず、青葉区と緑区の位置関係を確認しておきましょう。
下図からおわかりのように、両区は隣りあっています。けれど、「荏子田」と「江古田」とは、直線距離で6-7Km離れていることを申し添えておきます。(本項最下段の「アクセス」もご参照ください。)

fig.5 横浜市道路台帳地図情報(横浜市 2006)
横浜市の地図

横浜市緑区の江古田

横浜の江古田は、地名/町名としては現存しておらず、東急バスの「北八朔公園江古田(えこだ)口」というバス停名に残るのみである。
ただし、1965年/昭和40年の時点で、「旧・港北区西八朔町江古田(えごだ)」という地名があったことが確認できる。(横浜じゃん旅行社 2006)

では、江戸時代においては、この地域はどのように呼ばれていたのだろう。
「新編武蔵風土記稿」をみると、当該地区は都筑郡西八朔村の小名「えこ田」として記載されていることが確認できる。
よって、少なくとも江戸時代の時点において、(横浜の)「江古田」の「古」の部分は濁らずに発音されていたと推測される。

下記の画像は、蘆田による校訂本からのスキャン画像である。
当該部分は、「巻之八十三 都筑郡之三 西八朔村」の項に記されている。

以下、冒頭部分を引用する。(漢字のみ新字体に変更。)

西八朔村は、郡の中央にあり、古は小机郷師岡庄小机領に属すといえど、今は神奈川領に属せり、(略)
当村西北に分つことは其年代を伝へず、小田原北条分国の頃は、略
いまだ東西も分たざりしにや、御入国の後正保のの頃ははや分ちて唱えり、

ということで、東西南北いろいろとあった地域のようである。

fig.6 新編武蔵国風土記稿における西八朔村えこ田の紹介部分
西八朔村えこ田の紹介部分
  蘆田 1981

横浜市青葉区の荏子田(1〜3丁目)

「江古田」が「消えた地名」であるのに対し、「荏子田」は「復活した地名」といえるかもしれない。
横浜市の行政区の変遷をみると、「荏子田」は1984年/昭和59年に誕生した街であることがわかる。
以下、その変遷の概略をたどってみる。

1939年/昭和14年
港北区・戸塚区新設。(現在の港北区は、旧・神奈川区に相当)
港北区に「元石川町」「大場町」を設置。(それぞれ、旧・都築/都筑郡の村だった)

1969年/昭和44年
港北区から、緑区が新設
「元石川町・大場町」は、港北区から緑区に編入。

1984年/昭和59年
土地区画整理事業の施行
「元石川町・大場町」の各一部から、「荏子田」が新設。

1994年/平成6年11月
行政区再編成
緑区および港北区の各一部から、青葉区が新設。
これにともない、「荏子田」および「元石川町・大場町」は、緑区から青葉区に編入。

ただし、「荏子田」はまったくの新しい町/町名ではない。
「新編武蔵風土記稿」の中に「石川村の小名『枝子田』」として記載がある。

では、具体的にはどのような記述がなされているのだろうか。

fig.7 新編武蔵国風土記稿における石川村枝子田の紹介部分
石川村枝子田の紹介部分
  蘆田 1981

こちらは、「巻之八十七 都筑郡之七 石川村」の項に記されている。
以下、冒頭部分を引用する。(文字化け対策のために「繰り返し記号」も文字に変更。)

石川村は、郡の北にあり、古は小机庄なりしが今は唱へず、江戸日本橋へは七里の行程なり、当村南より北へかかりて山多く、すべて土地平かならず、土性は真土へな土交れり、水田多く陸田少なし、

なんだか大変なところのようである。
この説明文からして、「この辺に穴あり広さ二間半」とか「昔は人もすみしさまなり」とか、なにやら江戸時代にして打ち捨てられた地域のような雰囲気がただよっている。

表記と読み方

「横浜の町名」(横浜市市民局 1982)には、「昔、木の枝のように田が分かれて、入り込んでいたところからつけられた」と記されているが、その説の出典については未調査である。

また、江戸時代の「枝子田」が、どの時点で消滅したのかについても不明である。
「石川村」は、現在の「元石川町」である。旧・港北区の町として設置される際、すでに設置されていた「中区石川町」と区別するために「元石川町」と命名された。

この町名は、当該地区が俗称「荏子田」と呼ばれていたことから、住民の要求で命名されたものである。(青葉区の町名:荏子田一〜三丁目 2006)

なお、同ページでの「俗称で『荏子田』と呼ばれていた」という記述は、正確さにかける表現であるといえよう。
江戸時代以来の「えこだ」という呼び方が続いていたという話なのか、「枝子田」が「荏子田」という表記に変わり定着していたという話なのかが区別できないからである。

ちなみに、地元住人は「えごだ」(なかには「えごた」)と発音するという報告もあることを申し添えておく。(歴史探偵 高丸の地名推理ファイル 2006)

ともあれ、「えこだ/えごた」と読みは異なっても、文字表記自体は「江古田」で同一である分、練馬/中野地区の話はまだましかもしれません。

アクセス

以下、同地へのアクセスをまとめておく。
いつか、暇ができたら訪れることがあるかもしれない。(ホントか?)

北八朔公園江古田口へのアクセス
東急田園都市線「青葉台」駅から、「青82系統」路線に乗り(南下して)10駅目。
ただし、本数は多くないようである。

荏子田(1〜3丁目)へのアクセス
東急田園都市線「たまプラーザ」駅から、「た61系統」路線に乗り(北北西に)5〜8駅目。
ちなみに、「たまプラーザ」駅から「青葉台」駅までは(西に)5駅である。

バス停留所は、まれに改廃がおこなわれる。本項の内容は、あくまで目安とお考えいただきたい。

おわりに

読み方の問題はさておき、「江古田」と表記する(広義の)地名は、練馬と中野の他には、今回の緑区しかみつかりませんでした。
難しい漢字はひとつもないのに、とても珍しい地名といってよいでしょう。

また、緑区・青葉区それぞれにおいて、「えごだ」と読む人々や時期があったという点は、練馬・中野の江古田と同じであり、なにかしら親しみを感じます。

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